初めまして、ささやかな自分のキャリアを紐解いてみます。
安藤芳樹:プロフィール香川県出身
広告代理店(ADK)に勤務しながらドラッカーを実践。「5つの質問」で企業トップとの事業の定義を合意しながら経営者視点で商談を進め顧客に認められる。40歳の頃、ビジネス観や人生観に普遍の基盤をもちたくドラッカーに目覚める。その知見体得のために試行錯誤してたどり着いたのが「セブンチャート仕事術」。その体得のためにやった反復訓練は20000ページのチャートを作るにいたり、今も増殖中。さぬきうどんブームの仕掛け人であり、映画「UDON」のトータス松本の役柄モデルでもある。立教大学卒業、1957年生まれ。
2021年12月23日 初の著書「チャートで考えればうまくいく」を上梓
【受賞歴】
全国広告主連盟(広告大賞)
香川広告賞(最優秀賞)
愛媛広告賞(最優秀賞)
ACC(地域ファイナリスト)
アジアアドフェス(ブロンズ)ほか多数
-
主要実績
-
大手小売業
新規事業の立上げ支援
3年で売上高30億円を達成 -
大手食品メーカー
ドラッカー哲学の理念ガイド作成
四国経産省「大切にしたい企業」
最優秀賞を受賞 -
食品メーカー
経営トップにドラッカー手法を伝授
年商800億から1000億に飛躍 -
カーディーラー
全国37位のディーラーを2年後に
全国1位に引き上げる。 - さぬきうどんブーム ドラッカーイノベーション7つの機会を活用して「さぬきうどん」を「地域ブランドNO1」に導く(08年日経地域ブランド大賞)
-
大手小売業
新規事業の立上げ支援
-
セミナー
- 早稲田大学(地域文化論)
- 愛媛県庁(ブランド戦略)
- 松山市役所(マーケティング原論)
- 農林中金(農産品のブランド構築)
- 松山法人会(うどんブームの裏話)
- 生保会社(5つの質問)
- 食品メーカー(ドラッカー事業の定義)
- インフラ企業(ドラッカーイノベーション)
- 商業会:T支部(マーケティング)
- 大手DIY(自己啓発)
-
企業研修
- クリエイティブ会社(販促アイデア開発:延べ17回開催)
- 食品メーカー(営業パッケージ開発:延べ7回開催)
- ホテル(自社の強み発見)
- ファーマシーチェーン(上場)(年間プロモーションテーマ開発)
- 通信会社(上場)(シニア世代への新サービス開発)
「さぬきうどんブーム」の仕掛け人
文章のチャート化例
「さぬきうどんブーム」の
仕掛け人
1988年バブルまっさかりの時期、四国、香川県で「さぬきうどん」のブームが静かに生まれました。
静かすぎて誰も気づかないほどですが。きっかけはぼくが高校の先輩であるタウン情報かがわの田尾編集長をうどんやにつれていったことでした。
その日はたまたま、お昼前に田尾さんとSデザイン事務所でばったり会って
「あ、もうお昼や。田尾さん、うどん行く?」と声をかけました。
「おお、行こか」と賛同したので、そのころおもしろがって行っていた「怪しいうどんや」のひとつ、中北うどんに案内したのでした。
「恐るべきさぬきうどん」を書いた
田尾和俊(たおかずとし)さん。
ぼくの高校の先輩です。
後日、ポケットベルが鳴って
「安藤さん、田尾さんが○○でおるから来て欲しいと行ってますよ」と連絡があって、行ってみたら
「おお、、安藤、来たか。実はな、この間行ったうどんやみたいな怪しいお店を紹介する連載をタウン誌でやろうとおもうんや。で、ほかにもあんな怪しいうどんやあるんやったら教えて欲しいんや」ということでした。
「あんなんやったら他にもありますよ。たとえば、、、」と何軒か教えてその日は終わり。
そこから数週間たってタウン誌に連載が始まったのが
「針の穴場探訪記、ゲリラうどん通ごっこ」という伝説のコーナーでした。
そうです。さぬきうどんブームの端緒はタウン情報誌の部数拡大のための人気コーナーの創設だったんです。
県外のお客さんの大行列!
そしてターゲットは地元香川県の若者でした。
ぼくも架空のうどん探検隊「麺通団」副団長「知将A藤」というキャラクターとして連載の中で活躍することになりました。
連載が始まって半年もすると読者から少しづつ「うちの近所にもこんなあやしいうどんやあります」といった情報が集まりだしました。今、大変な行列の釜玉うどん発祥の山越うどんはその読者情報から今の超人気店になったのです。
そうこうしているとほんとに大人気連載となり、3年後にはおもしろい連載だけをまとめて単行本化。
ここで一気に全国的な広がりが出てきたのです。
当時の様子は新聞にも掲載されました
PDFファイルでご覧になれます
マスメディアからまずは「DIME」のようなトレンド雑誌が興味を示し、次はテレビのバラエティ番組「巨泉のクイズダービー」の問題に取り上げられたり、、ブームといえる状況が現れ始めました。
GWや夏休みにはあやしいうどんやの周辺には県外ナンバーの車の大行列ができ、車内には「おそるべきさぬきうどん」の単行本が転がっていました。
その行列は農繁期の農家の稲刈りのための農道が県外車に埋め尽くされ本気のクレームがそこかしこで聞こえるほどでした。
「恐るべきさぬきうどん」は第3巻でひとつのピークを迎えます。
麺通団をはじめうどんマニアが人気投票してさぬきうどんランキングを発表したり、うどんイベントで初代うどん王が選出されたり、「うどん巡礼88ケ所」というタウン誌の過酷なスタンプラリー企画が全国広告主協会の広告大賞を獲得したり。
ぼくと田尾さんが面白がって始めた連載は全国規模の若者のブームに育ちました。
?
こうした最中に人を介して紹介されたのが、映画「踊る大走査線」の大ヒットで注目を浴びていた本広監督でした。
映画「UDON」のポスター
ぼくの役柄はトータス松本さん!
香川県出身の本広さんは「さぬきうどんの映画を作りたいんです」と言い出し、そこで怪しいうどんやさんを案内したり、ロケハンに協力したり、いろいろやっていたらプロデューサーが「これは人間ドラマにしないと成立しませんね」「麺通団のやってきたエピソードを脚色してうどんの映画を作りましょう」と言い出したのです。
「ええっ、俺らが遊びでやってきたことが映画の脚本の軸になるの?」思わぬ展開にびっくりしました。
そこから2年がたち、06年に封切られた映画「UDON」は新たなさぬきうどんブームを牽引しました。
ぼくの役柄はトータス松本さんがやってくれてこれはかなりうれしかったです。
さぬきうどんブームを要素分解すると3つに分類できます。
①は「メディアの露出頻度」
②はお中元などギフト需要の推移。
③はさぬきどん店舗の隆盛。
③はこまかくいうと
③ーA香川県内のうどん店の県外客の流入や
③-Bさぬきうどんを名乗る全国チェーンの隆盛、
③-C香川県内の名店の東京など都市部へのFCも含めた出店などに分けられます。
①は落ち着いた感はあります。②は底上げのまま推移と推察します。③ーAは行楽シーズンの行列を見る限り高速道路1000円時代より減少したとはいえ底固いといえ、③-Bはもはや当たり前の時代になり、いまや③-Cがどんどん加速している時代といえます。
また香川県内においても20年前の有名店からのれんわけしたような一回り若い世代のうどん職人が台頭してきています。
つまりさぬきうどんブームは一時のピークは過ぎたとはいえ高止まりしたまた新たなステージに変わりつつあるという事がいえるのです。
ビジネス本オタク
自宅の書棚です
私は香川県内 つまり、ローカルばかりで仕事をしてきたので、リアルにすごい経営者にお会いできる機会などなきに等しい環境でした。
その中で、自分を磨こうと思うと本に頼るしかない。
ビジネス本を中心に読書でスキルを磨こうとする習慣がついたのは無理もない状況でした。
経営とマーケティングに関わる本ならなんでも買って読み散らかす、、、そんな生活でした。
師匠との出会い
都村長生さん
そんな毎日に高校時代の友人のお姉さんが結婚したと聞きました。
旦那さんはマッキンゼーでコンサルしてると聞いて
「いずれどこかで会うかもしれない」「会うことがあればお弟子さんにしてもらおうかな」みたいなぼんやりした希望をもったりしていました。
そんなとき地元新聞の105周年記念に誰か優れた地元出身者に故郷香川への提言をしてくる人を探しているという話を聞いたのです。
さっそくその方を紹介したら、とんとん拍子で記者との対談企画に話が進みました。
その場にちゃっかり同席させていただき、提言を拝聴したのが後に私淑する都村長生さんでした。
そのときにはすでにマッキンゼーを卒業して独立してコンサルをやってらっしゃいました。
門前の小僧
文章のチャート化例
長生塾の風景
それから数年が過ぎ、その方が故郷香川でボランティア政経塾を主宰し、政治に新しい風をふかせ、若い経営者も育成したいという構想をもっていることがわかり1も2もなく協力することにしました。
その政経塾は「問題解決力」を養うために故郷香川の行政課題をサンプルにして、こうやって解決策の方向性を考え、こうした打ち手を実践すれば問題は解決するということを中心に、会計学やレポーティングを学ぶ延べ2日にわたる講義でした。
その内容の素晴らしさたるや、そこで学んだことは今も血肉になっています。とにかくその塾の運営にまつわる雑用はすべて引き受け、塾本番の講義も足掛け12年にわたり同じ講義を50回受けました。
継続は力なり、そこで体験した反復学習は、ここまで同じ話を聞けば、誰だってロジカルシンキングの基礎は身につくという確信と自信でした。
この問題解決塾とドラッカーさんの数々の著作が自分にとってのビジネス知見の学習の源であり、それは陳腐化しない知見を体得したいと思っていた願いと合致していました。